ある夜、残業を終わったことにして家の前に帰ると、ドアの前に知らない男の人が落ちていた。
あの時の私は疲れていて、とにかく家のベッドに沈んで眠りたい、ただその一心だった。話の通じない上司に何度も説明を繰り返して、もう喋りたくなかった。
とどのつまり、警察を呼んで事情を説明するとか現場検証がどうこうとか、そういうのはごめんだった。
「ねえ、くさいんだけど」
あの時の私に「もっと面倒になるから警察呼んで!」と叫びたい。あの日、ドアを開けた私についてくるようにするりと家の中に侵入したこの不審者は、この家を自分の家か何かだと勘違いしているらしい。
すんと鼻を動かして、フライパンの中を忌々しげに見つめながら苦言を口にする彼の無駄な長身を無視して、食器棚から木製の皿を取る。
「くさくないですー。普通のフレンチトーストなんですけど」
「僕これいらない」
「私の朝兼昼ごはんだから安心してくださーい」
ここにおまわりさんも呼ばれずに居座り続けているだけでも彼は私に泣いて感謝したっていいくらいなのに、彼はごはんも提供してもらえると思っているらしい。しかも彼は食べ物のにおいに敏感で、料理は大体なんでも「くさい」と表現する。つわりに苦しむ妊婦さんか。
こんがりとバターの香りがするそれを皿の上に乗せて、ハチミツをかける。少しだけシナモンを振りかけると、ディズニーランドみたいな香りが広がった。
「ねえ、その茶色い粉、くさいんだけど」
「確かにお兄さん、シナモンの匂い好きじゃなさそう」
シナモンとか、ローズマリーとか。スパイスやハーブみたいな、強い香りの草は苦手そうだ。
けれどここは私の家。加えて言えば、この不審者は家族でもなければ同棲している恋人でもなく、家賃を折半してルームシェアしているわけでもない、「なんでいるのかよく分からない人」だ。私が好きなものを好きな時間に好きなように食べることに、彼が文句を言う権利は一切ない。
というわけで、くさいとかいうクレームは一切無視して真正面でフレンチトーストを食べていると、お兄さんは胸ポケットからタバコを取り出して許可もなくスパスパと吸い始めた。
「そのお兄さんって呼び方やめてくれない?名前教えたでしょ」
タバコの煙が換気扇と反対側にふうと吐き出されるのを眺めていると、彼は不満げに口を尖らせて、前髪に覆われた猛禽類のような鋭い眼差しをこちらに向けてきた。
たまに、変なオーラがあるとは思う。けれど⋯⋯。
「はいはい、夜鷹純さん。とりあえず、煙草の煙は換気扇のある方に着氷させましょうね」
身元も知らない成人男性がいつまでも家にいるのはちょっと⋯⋯と言ったときに、彼が名乗った名前。
夜鷹純。
私でも知っている、フィギュアスケートのすごい選手だ。
純という名前はまだどこにでもありそうだけれど、夜鷹なんて苗字は珍しいし、同姓同名なんて滅多に起きないだろう。
あのお金がかかると噂のキラキラしいスポーツの、有名選手がこんな限界社不なわけがない。
こんな偏食であんなに高いジャンプを飛んだり数分間滑り続けたりする体力もあるわけがないし。
「信じてないでしょ」
「もちろん。『君にこの曲をプレゼントするよ』とか言ってスケート滑ってくれたら信じますけど」
「⋯⋯わかった」
何がどう分かったのかさっぱりだけど、自称夜鷹純は向いていた顔の方を逆にして、天井へ向けて紫煙を吐き出した。
今度は換気扇へと真っ直ぐに消えていった煙の端を眺めていると、タバコの香りがほんの少し鼻先を掠めた。
ハチミツをかけすぎたフレンチトーストに、タバコの苦い香りがほんの少し混じる。
案外ちょうどいいなと残りのフレンチトーストに齧り付いているのを、向かいの限界社不は何が面白いのかタバコをふかしながらじっと見つめていた。