「普通、逆なんじゃないかなあ」

ローテーブルの上に置かれた真新しい雑誌に呟く。
最近ゼクシィbabyをすっかり見なくなったと思って安心していたらこれである。

妊活たまごクラブ。
「赤ちゃんが欲しくなったら最初に読む本」とデカデカと書かれ、ぷくぷくと丸っこい赤ちゃんの足が映った表紙は見たくなくても自然に目が行った。
こういう雑誌を買って、煮え切らない態度のパートナーに結婚を遠回しに匂わせるのは、普通は女の人の方がやるものだと思うけれど、どうして竜胆くんが買ってくるんだ。
そしてゼクシィbabyの時も思ったけれど、なぜ竜胆くんは結婚を飛び越えて子作りまっしぐらな雑誌の方を持ってくるのか。
普通はゼクシィからでしょ。付録の婚姻届を「これ可愛いよねー?」とか言って見せてくるところから始まるものなんじゃないの?
いや、それでも十分普通の人より重いけど。

竜胆くんはどうして結婚そっちのけで子作りを仄めかしてくるんだろう。
え、もしかして私と竜胆くん、実は結婚していた……?
だから竜胆くんはゼクシィすっ飛ばして妊活雑誌ばっかり仕入れてくるのか。
え、怖い。
一体私の戸籍はどうなってしまってるんだ。知らないうちに灰谷姓になっていたりしないよね。婚姻届を書いた記憶なんてないから、大丈夫だと信じたい。

「ただいまー」

リビングの雑誌を前に固まっていると、玄関の方から竜胆くんの声がした。

「早かったね」

スーツの上着を受け取って、ハンガーにかけながら時計を見る。
まだ3時を少し過ぎただけで、世間のサラリーマンが帰ってくるような時間帯ではない。

「ダリーから帰ってきた」

竜胆くんの会社は会社として大丈夫なんだろうか。
竜胆くんが「ダリーから帰ってきた」をやらかすのは今日が初めてではない。
「ダリーから帰ってきた」、「今日はやる気が出ないから行かねェ」、「兄貴も16時まで寝てっから俺も良くね?」。
9時17時の労働とはまるっと無縁らしい竜胆くんから再三聞いた語録たち。今月だけでもすでに片手で数えられないほど聞いているけれど、さすがにフリーダムすぎるんじゃないだろうか。
お宅の社員、3、4時間だけ働いて妊活雑誌を読んでいるんですが。もっと竜胆くんを働かせた方が世のため人のために私のためだと思うので、竜胆くんの会社はもうちょっと頑張ってほしい。

「なあ〜、家に1人だとさみしいだろ?」

唐突すぎる。これ、絶対に誘導尋問だ。「yes」って言わせたくて聞いているのがバレバレだよ、竜胆くん。

「そんなことないよ」
「ガキがいればさみしくねェよなー」

私の返事、聞いてた?
竜胆くんのあまりにもパワー型な誘導尋問に思わず閉口してしまう。
「竜胆くんがいるからさみしくないよ」

「そっかー。でもやっぱガキっていいよなー」

どうしろと。
私の答えは少女漫画に出てくるような模範解答だったはずだ。キュンとしたりなんかして、丸くハッピーエンドに収まるパターンじゃないのか。
小っ恥ずかしいことを言ったのに、秒で流されて何が何でも子供に結びつけられる残念なマジカルバナナに終着してしまった。
無念。

「ちょっと早いけど夕飯の準備でもしよっかなー」

よろしくない会話は作業を理由にして終わらせるのが一番だ。それも、危ないと思ったらなるべく早いうちに。

「竜胆くん何食べたい?時間がかかるやつでもいいよ」

キッチンへ向かいながら聞く。
竜胆くんは意外と健康オタクだ。「タンパク質が多くて筋肉にいいから」と鶏ハムを作ると喜ぶし、「美味しそうだけど脂質が……」とチーズの成分表示を見て延々と唸っていたりもする。
けれどそんなに厳格ではないから、鶏肉かブロッコリーが入っていれば大体何とかなる。

「じゃあ鳥レバーの赤ワイン煮」

なんか難しそうなのが来た。
鶏肉はあるけれどささみと胸肉だ。レバーはない。
赤ワインもあるけれど、いかにも限定品な化粧箱に入っていたり、明らかに年代物な年号の書いてあるものばかりで、料理に使ってしまっていいものか分からない。というかむしろダメな気がする。
「今ちょっと材料ないかなあ。他は?」

「んー……。ほうれん草とサーモンのクリームパスタ」

珍しい。
お店に行ったら、クリームパスタなんて脂質を気にして真っ先に候補から外しているのに。そもそも竜胆くんはパスタがあまり好きじゃない。「女の食べ物」、「食った気がしない麺」あたりが竜胆くんのパスタへの評価で、自分から進んで食べようとすることなんてほとんどない。パスタのリクエストなんて軟禁生活が始まって以来初めてなんじゃないだろうか。 普段作らないごはんにちょっぴりウキウキしてしまう。
「それなら作れそうかな」
「レシピ見る?」
「ありがとう。助か……る……」

絶句。ウキウキは一気に吹き飛んだ。
竜胆くんの差し出してきたレシピ本。もっと正確に言うと、雑誌のレシピコーナー。
そこには「妊活ごはんレシピ」の見出しと一緒に、たった今竜胆くんのリクエストした料理名が小綺麗に並んでいた。
何これ。どういうこと?
鶏肉は?ブロッコリーは?筋肉に良い食材は?
優しそうな丸みのある字体で「子宮環境を整える」とか書いてあるんだけど。
ほんと何。怖。

「……パスタはそんなに時間かからないから、もうちょっとしてから作ろうかな」
「じゃあベッド行こうぜ」

行かないよ。
妊活ごはんを見せられた後にベッドにノコノコついて行ったら何が起きるか。少なくとも、平和にお昼寝ができるとは思えない。
「プーさんになりたい」

もう難しいことは何も考えないでハチミツを食べて、純粋なクリストファーロビン少年と遊ぶだけの暮らしがしたい。
100エーカーの森に住むんだ、私は。

「お前たまに変なこと言うよな」

竜胆くんに言われたくない。
眉をほんの少し上げて、竜胆くんが怪訝そうに言う。妊活ごはんレシピを持った人に言われても。

「森に住みたい」
「よく分かんねーけど森タワー行く?」

そういうことじゃない。
森と森タワーじゃかなり違う。まさに天と地ほどの差。

「助けてクリストファーロビン」
「は?誰そいつ」

あ、これダメなやつ。
むすっとするなんて可愛らしい表現には収まってくれない、爛々と光る目。
おとぎ話の森に住みたいなんて軽い現実逃避はあっという間にどこかへ消えた。
だってあの優しい世界には、こんな肉食獣みたいな目をした入れ墨の男なんて出てこない。

「なあ誰だよ?何?そいつ森タワーに住んでんの?」

違います。都内高層ビルの住人なクリストファーロビンなんて嫌だよ。

「お前がすぐヘバっから加減してたけど、浮気する余裕があンならいらねェな」

悪酔いでもしているような据わった目で竜胆くんに見下ろされる。
乱雑に解かれていくネクタイと、露わになっていく首筋の刺青。
背中からどんどん冷や汗の出てくる私に、空気を気にする余裕なんかない。
手段なんて何でもいいから、とにかく助かりたかった。

「竜胆くん、一緒にプーさん見る?」



*・・・*
プーさんすごい。
「ガキじゃん」、「ケンカ弱そう」と、謎に対抗心を燃やしてクリストファーロビンをこき下ろしてばかりだった竜胆くんは、いつの間にか画面の中で繰り広げられる物語に釘付けになっていた。
おかげで見終わってからも穏やかな洋楽とともにのんびりとした空気が流れている。
ちょっとくっつきすぎで暑い気もするけれど、真っ昼間からベッドインよりよっぽど健全だ。
一時は穏やかな昼下がりとはサヨナラになってしまうかと思ったけれど、大丈夫そうだ。
うとうととしていると、つむじに当たる竜胆くんの高い鼻梁がスゥーッと思いきり息を吸いんだ。
その音を聞いて、ハッピーになれる白い粉を鼻からストローで吸い込む不良青少年という、漫画で見たワンシーンを思い出してしまった。
竜胆くん、私を違法薬物みたいに吸うのはやめてほしい。

「アー、好き、マジで好き」

うわごとのように竜胆くんが好き、と繰り返す。
怪しい薬物をキメている人というのはこんな感じなんだろうか。
他人事のようにそんなことを考えていると、竜胆くんが熱っぽいため息をこぼした。

「ハァー、あ~、好きすぎてキンタマはち切れそー」

何?今竜胆くんは何て?
「胸がはち切れそう」の聞き間違いだろうか。そうであってほしい。うん、きっとそうだ。
とりあえず離れよう。聞き間違いとはいえ、のんびり平常心で座り続けていられるような一言じゃなかった。

「竜胆くん、お水でいい?持ってくるね」
「俺も行く」

水分補給しといた方がいいもんな、なんて一言が聞こえて固まりそうになる。
ぼそりと聞こえたそれに、「何のために?」なんて疑問はもちろん飲み込むことにした。




2023_05_27